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馬路村の林業は森を育てる仕事です。人の手によって植林された森は、除伐、下刈り、枝打ち、間伐と長い歳月にわたる手入れが必要です。伐った分だけ必ず植える。そうして育てた森を集め、加工し、販売し、また森を育てるために使う。それが馬路村の永遠に続く森づくりのへの姿勢です。 |
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馬路村は、豊富な雨と温暖な気候が良質な杉を育み、かつては村内に2つの営林署があったほど、林業の盛んな村でした。
特に魚梁瀬(やなせ)杉は全国に知られる銘木で藩政時代には朝廷奉納や幕府献上物として重宝されました。
土佐藩では野中兼山らが森林の管理体制を作り、「育てながら伐る」という思想のもとで、御留山(藩有林)として厳しく管理されたと伝えられています。今でも魚梁瀬地区の奥にある千本山には空高くのびる巨木が林立し、杉の日本三大美林のひとつに数えられています。
また、村では丸太材や建築用材として製品加工する技術も発達し、その技は今日まで受け継がれています。
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古い記録によると魚梁瀬杉は、豊臣秀吉の時代に京都の大仏殿建築に使われ、江戸時代に入ってからも大径木は、二条城や江戸城の普請のために使われました。その素材の良さは今も変わらず、色彩が豊富であり、太く節がなく、特有の香りを放つなど、高級銘木の特徴を持つことから全国各地で高い評価を得ています。
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その昔、魚梁瀬杉は馬や牛に牽かせたり、川に流して搬出していましたが、明治44年全国に先駆けて森林鉄道が開通し、大量の杉が搬出されるようになりました。
蒸気や木炭燃料を経て、昭和20年にはディーゼル機関車が登場しました。村民は愛着を持って「ガソリン」と呼んだといいます。そして廃線になる昭和38年まで、生活用品や村人も運ぶ唯一の交通機関として活躍しました。
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写真提供:高知市民図書館 寺田正写真文庫 |
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